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- E33年前の合格発表の日は私も親にたたき起こされ、小禄高校まで引っ張っていかれました。無事合格を確認した後は放免され、他校を受験した友達と、その学校まで発表を見に行きました。お互い合格してほっとするも、新しい生活への漠然とした不安があったのを思い出します。その時どこかでビリーバンバンの「白いブランコ」が流れていたような。あれから気の遠くなるような年月が経ちましたが、皆さんお元気ですか?
- 私の高校合格発表の時は、朝寝坊している所を友達にたたき起こされ、「お前の名前もあったよ」と教えられました。
そうか、そうかと小禄高校に行ったのですが、掲示板の前は、ひとだかり、中学の先生に報告しに行こうと言う事になってタクシーに5人乗り込んで中学に行ったのですが、
興奮もおさまった夕方、自分では自分の名前を確認していない事に、きずき、一人で夕暮れの掲示板の自分の名前を見に行きました。
- 高校時代の思いでは。。。というと、糸満行きのバスに乗って終点で降りて近くの海に行ったこと、それも、授業サボって友達とふたり。家は逆方向だというのにサ。何回くらい行ったかな。たぶん両手で数えられるくらい。あの時の潮のかおりが懐かしい。
- 以前、国際通りから沖映通りへ入ってすぐ左側のそばやさんのガラスケースに並べられてるどんぶりのそばをそこで頂きました。おいしかったです。昔そばは小10セント、中、大15セント20セント?ぐらい。
- 高校時代にバスストがあり、那覇大橋を歩いて渡り、楚辺の急勾配の坂を登り開南にぬけて帰りました。確か高校一年の頃に那覇大橋は開通したんじゃないかな?高校の周辺には外人(アメリカ−)がまだ住んで居たの思い出します。又、安い食堂があり裏で同級生、先輩?が隠れてタバコ吸ってました(今は堂々と吸ってますが・・・)その頃のそばっていくらでしたか?10セント?15セント?誰か覚えてますか?
- 12月と言えば、昔平和通りの商店に大売りだしの赤色の登り旗が、ななめに立っているのが思い出します。きせきの1マイル国際通り、死語?、リウボウー松尾ー牧志ー安里へと、あちこち店に入りながらよく歩きました。今は・・・私達はもっとも良い時代を見させてもらった。
高校の通学は、安里で大嶺線,宇栄原線に乗り換え国際通りー58号せんー・・・。帰りたまに市外線に乗ってーー与義で降りて帰ったことも、ナハ大橋も歩いて帰ったことも。もう今は、空港から出るとおろく、那覇一変して東西南北も分からぬありさまです。沖縄は良くも悪くも変わりすぎます。
- 修学旅行に、バレーボール部の人達は全員(例外の人が一人いたみたいですが)行かなかったそうです。
県大会で優勝して、九州大会にどうせ行くのに、費用がもったいない。修学旅行のお金は、大会に行く費用にまわす。と言う事に、部員全員が集って相談したそうです。でも、県大会は修学旅行が終ってからです。気合いを入れる意味合いもあったかも知れませんが…。優勝すると言うのは、希望的観測。希望で行動できるなんて、さすが高校生。費用を心配し、親の負担をかるくしよう、なんて、さすが復帰以前。
決勝戦か、決勝リーグには残れたそうですが、残念ながら九州大会には、出れなかったそうです。その県大会で、部員を乗せたバスが、路肩にはまる事故もあったとか。
昔見た青春映画みたいでしょう。私なんか、バレー部とは関係ないのに、話を聞いた時、『おれたちの青春だ』なんて、感じてしまいました。
- 『アッ!入学式から遅刻だ!・・・』それは、忘れもしない高校入学式の日でした!
朝早く、いつもよりは余裕を持って、高校生活のスタートに期待と不安で胸を膨らませ登校しました。バスを降りて、学校に近づいて門をくぐって行くとなんだか変です。新入生達がグランドに既に整列しているではありませんか!校長先生らしき人が訓示をしている様子でした。
アッ!ヤバイ!最初から遅刻だ!気持ちもそぞろに、焦って、急いで皆が並んでいる列に加わる為に、グランドへ一目散に駆けて行きました。だんだんその生徒達の群集に近づいてくると、何故か真新しい学生服を着ている筈の新入生?の顔が鮮明に見えてきました!しかし、新入りの仲間にしてはやけに落着いているな〜と思いながら・・・20m・10m・5mと近づいて列に入ろうと思いながら・・何か変だ!やっと状況が呑み込めてきました。ヤバイ!新入生じゃない!先輩達だ!・・・。その時、既に遅し、先生、生徒全員私に注目し、校長先生も!
時間が一瞬止った様でした・・・。サア、どうしよう!今度は反射的にその列から逃げるようにグランドの反対側の隅の塀を目指して一目散に駆け抜けて行きました。
まるで、オリンピックの聖火ランナーのように観客の注目を浴びながら、聖火台を目指して駆けて行く様に・・・。あんな格好いいモノでは無かったけれど・・・(*^-^)
先輩の皆がやっと見えなくなって、グランドの隅の塀(あの頃壺川自練があった近くの)を乗り越え身を低くして、再度見られないように・・・穴があったら入る穴を探して!(^▽^笑)
それから、放心状態で、一旦家に帰り、早速、穴が無かったので布団に潜り込み、これからの学園生活の不安を胸いっぱいに抱きながら,(ー。ー#)・・・。午後、気を取り直して改めて本番の「入学式」に望む私でした。先輩に顔をなるべく見られないようにうつむいたままで・・・。
入学して暫らくの間先輩とすれ違うたびにバレテはいないかと不安な日々を過ごす毎日でした。その頃、2つ上の姉が同じ小禄高にいましたが、その話をすると学校では知らん振りされました!こんなドジな弟を持って、さすがに自分の姉弟とは悟られたく無かった事でしょう・・・。暫らくは口を利いて貰えませんでした。(∩_∩)ゞ
- 高校を卒業したその年、一年ほど東京に住んでいました。その年の冬はとても寒くて、確か2月頃だったかな?積もる程の雪が降って、感動したのを覚えています。夜中の3時頃、近くの公園に行き、手足の感覚が無くなるまで「雪だるま」を作りました。傍に保育園があって、子供達が登園してきたら、大きな雪だるまを見てきっと喜ぶだろうと思いながら・・・。その後、疲れきって昼まで寝てしまい、起きてすぐ公園に行ってみたら跡形もなく「雪だるま」は消えていました。果たして、子供達は喜んだのでしょうか?
- 福岡にきて一番嬉しかったのは、雪を知った事。おかげで、冬大好き人間になってしまいました。雪の日のツーンとした冷たい空気、日常音が消えシーンとした中にシャリシャリとしたチェーンをまいたタイヤの音。沖縄では体験できなかった事です。うーん、それとほかほかのコタツ。たまりません。
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しりとり川柳
『ものわすれ じかくしてるよ まだいける』
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『ストレッチ ときどきしてる ものわすれ』
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『座禅くみ 体操したり ストレッチ』
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『五十前 大人になれず 座禅くみ』
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『アテネ五輪 とうきょう五輪 五十前』
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『花一輪 ママチャリ二輪 アテネ五輪』
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『必要だ 世界に飾る 花一輪』
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『今の世は 心の健康 必要だ』
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『ウチナーぐち なんくるないさ 今の世は』
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『ウチナンチュ ウチナ-島うた ウチナ-ぐち』
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『友利プロ わったー自慢の ウチナンチュ』
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『代名詞 沖縄ゴルフの 友利プロ』
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『チャンプルー 沖縄文化の 代名詞』
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『夏盛り ゴーヤーそだて チャンプルー』
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『まつてます てぃらかんかん 夏盛り』
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『憂いの春 さくらがさいた まってます』
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『何時までも つづくもんかよ 憂いの春』
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『母ちゃんよ 頼りにしてる 何時までも』
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『平和かな パソコンしてる 母ちゃんよ』
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『お茶の間に 集うユンタク 平和かな』
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『やって来る 恵里の笑顔が お茶の間に』
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『あたたかさ もうすぐ春が やって来る』
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『 なかまたち 涙と笑いと あたたかさ 』
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『掲示板 皆で書こうよ 仲間たち』
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『全員集合 楽しく活用 掲示板 』
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『HPアドレス おろく8期だよ 全員集合』
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『ローマ字入力 誤り入れたよ HPアドレス』
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『手習いPC 文字打ちタイプ ローマ字入力』
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『孫の声 聴く年なって 手習いPC』
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『おばあちゃん 心にひびく 孫の声』
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『留守が良い 今日もお出かけ おばあちゃん』
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『可燃ごみ 亭主元気で 留守が良い!』
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『何処へやら 忘れた思い 可燃ごみ』
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『通り過ぎ 若き日の思い 何処へやら』
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『秋の風 あっというまに 通り過ぎ』
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『8期生 若き日の面影 何処へやら』
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